2008-04-29
おもしろビジネス哲学ABC
4月29日(火曜日) (7)
私が、総合哲学の地点にたどりついたのは、踊り心という課題を生涯一本道で追求してきたからでもあるのですが、 同時にそこにはそこから核爆発がおこるような中心、核となる部分も思索も行われてきていたからに他なりません。
だから一人の 小さなそれも田舎の本もほとんど読めない人間が スポーツにしてもなんにしてもひろく深い内容のものを書いてゆくことが出来るのだと思っています。
情報化時代は そういう個人の勝負の世界でもあるのですが、ネット音痴でも そこに私が切り込む隙間があったのです。
ともかく、このメインのブログにては、その核の部分、物事や人生の本質の部分、思索の根源の部分、そこから有効で新鮮な考えがつぎつぎと湧き出してくる泉のような部分を扱ってゆきます。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
(お知らせ)
すみません、このFC2でのカテゴリのタイトルを間違えました。 つい忙しくていつもやってることなのにやはりこうした面ではほんとに頭が悪いのでしょう、間違えてしまいました。
「情報の本質」という言葉でそれを設定していましたが、 それはこの新体制でのこのメインの哲学を中心としたブログの全体の性格を意味してしまっています。
今ごろになって あれ変だなと気がついたのです。
膨大な中身の全体自体を、ほとんど一瞬でとらえてそれを「情報の本質」と名づける能力はあるのに、こんな簡単な面で記憶とか注意力とかが鈍ってしまうのです。
このへんがなかなかネット技j術や操作の世界になじめていかない無能さのあたり、私の欠点の世界なのでしょう。
編集しなおします。 今 扱ってるのは「おもしろビジネス哲ABC」という新体制メイン・プログの中の“「存在の哲学」というカテゴリタイトルであり、そういう最初のカテゴリ”です。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
◆存在の哲学◆( )
(このタイトルのあたりは、最初から編集しなおします。 ←直ししだい、この部分も削除します。)
今 猿から人間に進化した時に 何が脳の中に起こったのか その変化のあたりの哲学を かなりつっこんで追いかけています。
猿や他の生物の脳と 私達人間の脳との違いはどこにあるのでしょう?
それは「自他を見つめ反省することのできる能力」を脳が獲得した点です。
がゆえに、人間は文明の進歩という道具を手に入れたのです。
言葉もその1つです。
しかし、その言葉の世界は、やがて頭に混乱と不統一を起こします。
何がほんとうの進歩かを「見つめる」ことが難しくもなってきてしまったのです。
それでも必然的に反省と進歩も起こり続けています。 しかし、そこにはもともとの能力の危機さへ、いやこの人間社会全体の危機さへも関わるようになってしまっているのです。
ですが、 それをさぐってゆくためにも、
今そのへんは、すこしおいておいて、
ここにまず その原点である「自他を見つめる能力」とは何であるのかをもう少し深く哲学しておきましょう。
この総合哲学の広場は ほんとに広いジャンルを扱います。 そのため、その前にすこしだけ語っておきたいのですが、 その辺のところで よく言われるのがキリスト教の哲学です。
キリストがそのように言ったわけではないのですが、 そこから生まれた神学とかいうのが、長い間かなりおかしかったりしたのです。
そこでは、人間は万物の霊長という哲学が展開されます。 霊という言葉を使えば、そのようにも言えることは言えると思います。 でも そこには他の生物より人間のほうが偉いという差別感があり、それがまた、同じ神が創造した者に差別をつけてしまうという矛盾した心、不徹底な中途半端な哲学をそこに生んでしまっています。
キリスト教の人で反論がある人はコメントください。 論争しましょう。 おそらく有益な論争となるでしょう。
そこらへんは、仏教のほうが深いです。 はるかに深いです。
命の連鎖のあるがままの姿への その長い長い過程への峻厳なリスペクトがあるからです。
ブッタがそのへんをどう語っているかとかは知りませんが 仏教の歴史全体にその精神が流れています。
そのへんも、やがて、このブログは明らかにしてゆくこととなるでしょう。
が、
たしかに、猿から人間への進化には 巨大なまでの質的な、価値における差があったことはこれもまた事実なのです。
「自他を見つめる脳」を生物が宿したということはいったい何を意味しているのか?
それはほんとに そんな大きな他の生物との差なのか?
あしたは、その人間の根源とも言えるその誕生のふるさとの地の知を おもしろおかしく追いかけていってみましょう。
そこには たしかに宇宙の大きさにも似た巨大な変化があったのです。
ではきょうはここまでです。
あしたのこの時間もお楽しみに、
ラーメン情一郎ジェームスボンド(知恵結凡土)、ことじぇーより、
私が、総合哲学の地点にたどりついたのは、踊り心という課題を生涯一本道で追求してきたからでもあるのですが、 同時にそこにはそこから核爆発がおこるような中心、核となる部分も思索も行われてきていたからに他なりません。
だから一人の 小さなそれも田舎の本もほとんど読めない人間が スポーツにしてもなんにしてもひろく深い内容のものを書いてゆくことが出来るのだと思っています。
情報化時代は そういう個人の勝負の世界でもあるのですが、ネット音痴でも そこに私が切り込む隙間があったのです。
ともかく、このメインのブログにては、その核の部分、物事や人生の本質の部分、思索の根源の部分、そこから有効で新鮮な考えがつぎつぎと湧き出してくる泉のような部分を扱ってゆきます。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
(お知らせ)
すみません、このFC2でのカテゴリのタイトルを間違えました。 つい忙しくていつもやってることなのにやはりこうした面ではほんとに頭が悪いのでしょう、間違えてしまいました。
「情報の本質」という言葉でそれを設定していましたが、 それはこの新体制でのこのメインの哲学を中心としたブログの全体の性格を意味してしまっています。
今ごろになって あれ変だなと気がついたのです。
膨大な中身の全体自体を、ほとんど一瞬でとらえてそれを「情報の本質」と名づける能力はあるのに、こんな簡単な面で記憶とか注意力とかが鈍ってしまうのです。
このへんがなかなかネット技j術や操作の世界になじめていかない無能さのあたり、私の欠点の世界なのでしょう。
編集しなおします。 今 扱ってるのは「おもしろビジネス哲ABC」という新体制メイン・プログの中の“「存在の哲学」というカテゴリタイトルであり、そういう最初のカテゴリ”です。
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
◆存在の哲学◆( )
(このタイトルのあたりは、最初から編集しなおします。 ←直ししだい、この部分も削除します。)
今 猿から人間に進化した時に 何が脳の中に起こったのか その変化のあたりの哲学を かなりつっこんで追いかけています。
猿や他の生物の脳と 私達人間の脳との違いはどこにあるのでしょう?
それは「自他を見つめ反省することのできる能力」を脳が獲得した点です。
がゆえに、人間は文明の進歩という道具を手に入れたのです。
言葉もその1つです。
しかし、その言葉の世界は、やがて頭に混乱と不統一を起こします。
何がほんとうの進歩かを「見つめる」ことが難しくもなってきてしまったのです。
それでも必然的に反省と進歩も起こり続けています。 しかし、そこにはもともとの能力の危機さへ、いやこの人間社会全体の危機さへも関わるようになってしまっているのです。
ですが、 それをさぐってゆくためにも、
今そのへんは、すこしおいておいて、
ここにまず その原点である「自他を見つめる能力」とは何であるのかをもう少し深く哲学しておきましょう。
この総合哲学の広場は ほんとに広いジャンルを扱います。 そのため、その前にすこしだけ語っておきたいのですが、 その辺のところで よく言われるのがキリスト教の哲学です。
キリストがそのように言ったわけではないのですが、 そこから生まれた神学とかいうのが、長い間かなりおかしかったりしたのです。
そこでは、人間は万物の霊長という哲学が展開されます。 霊という言葉を使えば、そのようにも言えることは言えると思います。 でも そこには他の生物より人間のほうが偉いという差別感があり、それがまた、同じ神が創造した者に差別をつけてしまうという矛盾した心、不徹底な中途半端な哲学をそこに生んでしまっています。
キリスト教の人で反論がある人はコメントください。 論争しましょう。 おそらく有益な論争となるでしょう。
そこらへんは、仏教のほうが深いです。 はるかに深いです。
命の連鎖のあるがままの姿への その長い長い過程への峻厳なリスペクトがあるからです。
ブッタがそのへんをどう語っているかとかは知りませんが 仏教の歴史全体にその精神が流れています。
そのへんも、やがて、このブログは明らかにしてゆくこととなるでしょう。
が、
たしかに、猿から人間への進化には 巨大なまでの質的な、価値における差があったことはこれもまた事実なのです。
「自他を見つめる脳」を生物が宿したということはいったい何を意味しているのか?
それはほんとに そんな大きな他の生物との差なのか?
あしたは、その人間の根源とも言えるその誕生のふるさとの地の知を おもしろおかしく追いかけていってみましょう。
そこには たしかに宇宙の大きさにも似た巨大な変化があったのです。
ではきょうはここまでです。
あしたのこの時間もお楽しみに、
ラーメン情一郎ジェームスボンド(知恵結凡土)、ことじぇーより、

