2007-10-02

ちょいシャレビ哲 第29回【言葉】(笑理の宴)15

【言葉ってなんだろう?】

(笑理の宴)15

きょうで、この「笑理の宴」は打ち上げの予定(即興的に書いてるのでまだ書いてみないと解からない(笑))です。

まず、昨日「は」という発音の漢字の、このサブ・カテゴリーでの連発の予定だった分の概略説明を小連発しましたが、

この小笑連発は、自分がそういう感じに触れて今までにふとふと考えてきたものの集大成のようなものでした。

べつに記録してきたわけではなく、記憶の中から引き出してきたものです。

記憶力は悪いほうですか、きちっと考え抜いたことばかりですし、面白い憶えやすい「は」の一語がついた記憶ですので、いつでも思い出せる形であったわけです。

でも、その中で「刃」についてもかなり考えさせられた事があったことを思い出しました。 

今「漢字変換」を「は」で見てみると、なんとまだまだたくさんあるんですね。

その中にはこのへんの思いの膨らみそうなものもどうやらありますね。

なんか不思議な発音と漢字の世界ですよね。

さて「刃」についてですが、

これは自分でも考えきれていません。

かなり高度なコメディーの哲学の中で(いままで読んだ本の中でですが)扱われていた笑いの本質部分です。

「自分をするどく離れて見る」
「そして、自分を切る」
その「刃」の描く空間がコメディーの本質なのだ。

というのですが、説明ぬきで何を言ってるのか解かりますか?

いつか、考えぬくことができたと思えたら、わたしのほうからもこのブログで説明させていただきます。
(みなさまも、これで何か心づくものがありましたら、自己の「笑いの哲学」にて考えておいてください。)

ごめんなさい 余談でしたでしょうか?

きょうが最後だと思うと、これを抜きに先に進むのが心残りとなってしまったようなのです。


では、最後のきょうの分の文は、
「は」ではなく「はは」です。

世界で一番最初に、人間の歴史を貫くような最高度の「度量のひろい精神」を、最短の鋭い表現で語った人が、キリストだと私は思っています。

大地の全てを包み込む「はは」の心を、最初に語ってくれた人であり、そのために十字架にかけられてしまった人です。

その人が神でもあったのかどうかとかの判断能力とかは、私の思考能力を超えてますから全く解かりませんが、

私たちにとって はたしてそこまで考える必要があるものなのかという点は、まだ触れませんが一応哲学しています。

そのキリストの母である聖母マリアは、童貞とかいう伝説もこれは西洋では根深い病理であるほどまでに語り継がれています。(「病理」とかきましたが、このような人によっては大きく誤解しかねない言葉も、これからしばしこのブログには登場してゆきます。 )

そのことはあさって(明日は 「挨拶」の文とさせていただきます。)以後のカテゴリーテーマ「セックスを深く考えよう」でやがて扱っていきます。

もちろん童貞などであるはずはないのですが、

ただし、おそらく最高度に人間的な、また純粋無垢なまさに「母」の象徴であるようなほんとうに不純な心の混ざる隙間のない人間的な男女の性の世界をとおして、そこからキリストが宿ったことは 充分考えられるところですし、

なによりも、ここに明記しておきたいのは、学者たちや教会の権威者たちが
受胎告知とかいうでっちあげで事をねじまげてしまったにせよ、 庶民の哲学のなかではそんなことはどうでもよく、それよりもまさに 最高にすべてを包み込むだれをも愛する「母」の象徴として信仰されてきたということが大事だということです。

音楽の中で扱われいる「聖母マリア」の曲は、すべてが、その深いほんとうの伝統がなんであったかをわれわれに ささやきかけてくれています。

時には静かに 「アベ・マリア」の曲を聴いてみましょう。 仏教徒であろうとキリスト教徒であろうと、神や仏をなかなか信じられない私のような人間であろうと、関係ないです。そこには深い深い「母」の魂が流れているはずです。

このブログには やがてあらゆるジャンルの表現芸術の世界が登場しますが、
音楽の次には美術の世界の聖母マリア像にも少し触れておきます。

ミケランジェロの絵も彫刻もステキです。

フラ・アンジェリコの素朴でもある聖母像もステキです。

でも、わたしが見た中で 最高の傑作は、

誰が書いたのか思い出せないのですが、

西洋の作品で、 病気のわが子を深く深く深く(言葉では書けないから絵にしているとしか言いようの無い)抱きしめている絵です。

マリア像そのものではないですが、わたしはそれを見て始めて音楽をさへこえる西洋の「母」のイメージの魂を垣間見たのです。

冠も後光もありません(あたりまえですけどね。) でもそこに描かれていた「母」こそ、西洋の庶民の魂の中、魂の底からの、ほんとうの「聖母マリア像」なのではないかと、なんども涙し、癒されてもきた一枚の絵でした。

そういうすばらしい音楽やすばらしい絵が 、
私にイソップの「北風と太陽」の「太陽」とは何なのかを この現実の大地において「哲学」させてくれたのです。

深く考えさせてくれたのです。

もし、その絵の中の「病気の子供」がやがて大きくなり、仮にさまざまな因果で大悪人となってしまったとして、あるいはその母親自身が死にそうになるほど痛めつけられたとして、そうしたらやはりその子、その人間はその母からも憎まれる存在となるのでしょうか?

普通の母親像ならば、不純もまざった母親像ならば、同じ「母性」を語っていても生身の人間であるのですからそのような心の隙も生まれましょう。

しかし、私が涙したその絵の、ごく普通の庶民の母親の子供をかき抱いている絵の中の母は、そんな隙など微塵もありませんでした。


私たち日本人には日本人の深い精神の伝統(本気で学んでみなければ今では忘れ去られてもいる伝統の世界です。 これからいっしょに学んでいきましょう。 すこづつですが、すこしづつでも。)

しかし、西洋には西洋の深い精神の伝統の世界があり、その深きものには謙虚でありたいものです。

その中でも、これは学問ではなく感性の世界の伝統ですから、心と心ととおしてし解からない世界かもしれませんが、この「母」の心は最高のものであることを知っておいてください。

心の奥底に慈愛の魂を宿しているのは東洋人だけではないし、その伝統を宿しているのも仏教徒だけではありません。

あの絵の母親が抱きしめていたのは、言葉で語れないほど深く深く深くだきしめていたのは、キリストです。 いや、ヒットラーでさへ同じように抱きしめる心、キリストの魂です。 彼女が抱きしめていたのは ほんとうの神の姿です。  むずかしい理屈でこしらえた想像の産物としての神ではなくて、すべてのうちにあるはずのそれだけは神を哲学したら、とうぜんの理である神の涙や笑い、 というより人間の存在すべてを、抱きしめていたんです。

これが、わたしは現実の大地にても次の時代の「太陽」となると思ってます。

はっきり言って悪人をも、仲間はずれにしないビジネスの道ともいえます。
私自身はですから、はっきりいって成功しないかもしれません。

でもよく考えてみてください。

この茨の道をすすんでこそ、そのブログで書いているビジネスの闘いの姿こそ、普通のビジネスの道でなら(それをこのブログでは、否定はしていません。)どれだけ役に立つかをです。

リアルな場では、私は これから「ハイエナの縄張り」という怖い名前のビジネスグループを作ろうと思っています。それを告白しておきます。

そこには、出所したような、  人も将来ですが受け入れていくことになるでしょう。

すみません、 時間がきてしまいました。

きょうの夜に時間がとれなければ「編集後記」も

《《《《《《《

今昼休みです。すこし時間がとれそうです。つづきを書いてみます。

この最後にきて、最後のハなびを連発して打ち上げの宴の幕とすることができなくなりそうでしたね。


こんなふうな花火です。

葉葉葉  あ葉葉葉葉葉葉、 破葉葉、把葉葉

あっ派把葉刃波覇羽歯端派、 

ああっ母母母母母母母

葉葉葉葉葉葉葉葉葉葉葉葉葉葉葉葉hは ahaahaHAハハハハははは♪


でも書かなくてよかった。(笑) 笑学生から馬鹿にされそうです(笑)。

それより、

こんな言葉あそびパズルよりも、その一つ一つの本質をどうかあなたの心の宇宙に打ち上げてください。

 それこそ、笑理の宴の幕にふさわしい宇宙的規模の花火であり「ハ」のお祭り、「はは」のお祝いであり、


そして、 このブログ「ちょいシャレビジネス哲学会」の一大冒険旅行への幕開けの花火でありえるところでしょう。


 では、 きょうの分はここまでです。


      あしたの「これからの挨拶」もお楽しみに♪


                  哲歌隊長浩 こと中村浩

 
((編集後記))





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